フォト

掲示板

停職「出勤」日記2009

停職「出勤」日記2008

停職「出勤」日記2007

停職「出勤」日記2006

停職「出勤」日記2005

投稿欄

ちらし置場

リンク集

« 根津公子さんからのお礼 | トップページ | 4月2日(水) »

2008/04/03

3月31日(月)

28日の教育委員会定例会で処分が決定され、該当者には処分発令の出張命令が出されたというのに、私だけはそれがされなかった。とすれば、免職間違いなし、と思わざるを得ない。いよいよ明日が処分発令の日という30日の夜、私は、免職以外の可能性は全くないと踏んで抗議声明を書いた(打った)。免職にさせないために、この2ヶ月やれることはすべてやった、後悔はない、明日の処分発令を新たな闘いの出発にしよう、そう思いながら書いた。普段より早くに布団に入ったけれど、余り眠ることができずに朝を迎えた。

 31日は7時30分、学校に到着。冷たい雨が降る中を、すでに何人もの友人たちが校門前に来てくれていた。荷物を職員室に置いた後、支援に来てくれた人たちとともに、都教委職員(役人)の登場を待った。

報道関係者も多数見え、取材に応じた。8時25分の始業に合わせて、私は2階の職員室に戻った。窓ガラス越しに、みんなの顔が見え、訴える声が聞こえてくる。出勤している職員は少なかったので、遠慮気味に窓を開けて、みんなの話しに耳を傾け、一人ひとりの顔を追った。

泣き声で途切れ途切れになりながらマイクで訴える友人、知人たち。2006年度在職した鶴川二中学区のお母さんたち、子どもたち。小学生のTさんの笑顔が私の目に飛び込んだ途端、私の中で強力なパワーが駆け巡った。

大分の益永さん、北海道、大阪、愛知、広島、福岡、長野からも、このために来てくださって感激。死刑台に上らされる私を見守り、校長や都教委に抗議しようと、駆けつけてくださったたくさんの方々(90人に近い、と聞かされた)に、支えられていることに感謝した。

部屋の中にいても寒いほど花冷えのする、おまけに雨が降りしきる中で、時間ばかりが経っていく。皆さん、予想もしない寒さに、大丈夫だろうか。都教委はここには来ないのか、どこかに私を呼び出すのだろうか。いろんなことが頭を去来する。

「都教委が来た!」と誰かが叫ぶ声に、下を見ると、一人は見覚えのある顔であった。都教委の役人だ。間違いない!と思った。時計を見ると針は、9時27分を指していた。

10時頃、鈴木副校長が私を呼びに来た。「根津さん、お伝えすることがあるので、校長室に来てください」。校長も来て、「10時30分までに来なければ、受領拒否と見なします」と居丈高に言う。同僚の一人が、「私たちにできること、何かある?」と聞いてくれた。「付き添ってもらえたら、とってもうれしい」と言うと、すぐに声を掛け合い、5(4?)人の同僚が同行してくれた。春季休業中なので、出勤していた人は少なかった。もう、これで十分心強い。うれしかった。

 10時20分、校長室に同僚たちと行き、私が引き戸を開け、一歩中に入ると、即座に副校長がやってきて、「戸を閉めてください」と私に、「手で押さえて、戸を閉めさせません」とあちら側の人に言った。都教委の役人は、個人情報だから戸を閉めるよう、私に告げた。「この場で受け取ります。そこまで行かなくとも、ここは(あなたたちが指定した)校長室です。個人情報が知られて私には困ることはありません。いえ、皆に知ってほしいですから、そちらがここに来てください。」と私は言うが、彼らは、「受領拒否」に仕立て上げればいいだけのこと。

処分書を受け取るために、仕方なく、都教委の役人の近くまで進んだ。補佐役は、三田村管理主事、処分書を読み上げたのは、江藤職員課長。

この2ヶ月間私たちが都教委人事部職員課に要請をした際に、対応を求めても出てこなかった課長がここにいる。課長は、何かを考える暇も与えずに、処分書・処分理由書を立て続けに読んだ。「停職6月」と聞こえた。まさか、間違いじゃないよね?!一刻も早く、廊下で待つ同僚たちに処分書を見てもらいたい、とじりじりする思いで長い処分理由書を読み上げるのを待った。

処分書渡しが終わると、校長は転任校を告げた。「あきる野学園養護学校」と言った。

10月に復帰して南大沢学園での仕事に就き、校長は私の仕事ぶりを見ることなく、11月14日、「来年度の人事構想にあなたは入っていない。」と告げた。それは、尾崎校長の判断ではなく、都教委のシナリオに沿い、都教委の指示通りに、何の躊躇も考えもなく、校長職の尾崎氏がなした行為であることは疑うべくもない。そして、この運び。

都教委は私に対し、要綱等を駆使して可能な限りの嫌がらせを行って来たので、いまさらの感あり。

この話の時には、もう私は出口の前にいたのだが、副校長は私と引き戸との間のわずか数十cmのところに、ついたてを入れた。何のための目隠し?といぶかしく思っていたら、廊下に出て、その理由がわかった。同僚たちは、引き戸1枚を隔ててガラス越しに、そしてついたてのわずかな隙間から中をうかがっていたのだとのこと。喜劇だ。

 処分書を持って廊下に出ると、まずは皆に処分量定の記載を確かめてもらった。「免職じゃないよね?」「うん、違う。停職6月、と書いてある」「やったー」「やったー」みんなで喜び合った。免職ではなかったうれしさと、同僚たちが気持ちを共有してくれたうれしさ。なんという幸せ!

都教委の役人や校長たちは同僚たちの喜ぶ声をどんなふうに聞いたのだろうか?いや、それは、指示された職務外のこと、意に介さず、なのか?

 外の皆に報せなくちゃ、と職員室に駆け上がり、私はまずは年休処理簿に1時間の年休申請をした。その間に同僚が外の皆に、笑顔でサインを送ってくれていた。年休申請を済ませた私は、窓から皆に向かって、叫んだ。「みんな聞いて!都教委は、私をクビにすることはできなかった!!」(と、言ったそうだ)。

そして、転げるように外に走った。歓声と泣き声で迎えてくれた皆と、抱き合い、喜び合った。

処分理由書には、卒業式での不起立のほかに、「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」のロゴの入ったトレーナーについての、職務専念義務違反、職務命令違反が加えられていて、なおかつ、停職6ヶ月。とすると、昨年の君が代「不起立」での停職6ヶ月処分よりも薄まったとも言える。一段ごとに死刑台への階段を上らされる累積加重処分に、風穴を開けることになったのだ。

「君が代」処分自体が間違いであり、半年間も仕事を奪い、収入を途絶えさせる停職6ヶ月処分は、許しがたいことではあるけれど、連日集まり行動してくださった人たち、都教委にいろいろな形で声を寄せてくれた全国の、いや、世界各国の人たち、そういう人たちの力によって、勝ち取ることができたものだ。

また、トレーナー処分発動か?!という2月から3月末までにいくつもの新聞社がした報道は、どれも、「都教委よ、余りにひどいじゃないか」といった論調だった。そうしたことすべてが、都教委の判断に影響したことは明白だ。私一人がどんなに動いても、追放は食い止められなかっただろう。大勢の人が見える形で動いたことが、都教委の暴走にブレーキをかけたのだ。私たちみんなの勝利だ!

都教委は、不起立・処分発令対象者から私を分離して、学校で密かに処分発令をしてしまおうと考えたのだろうけれど、結果は彼らの目論見からすれば、裏目に出てしまった。

お昼のニュース(TBS・TV)が、学校前で喜び合う私たちの姿を放映し、翌日の毎日新聞は、そのシーンを伝える写真を大きく掲載した。東京新聞の報道も、私の声を大きく伝えていた。

午後は、不起立・被処分者20人の、私と退職者以外の人たちへの処分発令が水道橋の教職員センターで行われた。河原井純子さんは、私の昨年と同様に、停職6月。

早くその場に合流したかったけれど、年休の残が2時間しかなく、15時10分、その年休を使って、集会と記者会見を行っている会場に向かった。


« 根津公子さんからのお礼 | トップページ | 4月2日(水) »

停職「出勤」日記2008」カテゴリの記事