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2009/05/25

5月21日(木)

鶴川二中へ。7時40分、プラカードを用意しているところに、頭の上から声がかかった。06年に知り合いになった女性が出勤されるところだった。「今年も停職なのよ」と話すと、「お姉さん、がんばるねえ。やるっきゃないですよ、ね!」と応援してくれて、駅に急がれた。

Nさんは今日もいらして、「社会科の授業 続き(2)」を生徒に手渡された。4月のときには、生徒の受け取りはよかったが、今日は様子が違った。手を出さない生徒が目立った。2006年に私を排除しようとした動きから推察すれば、何らかの動きがあったのかもしれない。

でも、それも無風より、どんなにいいことか。生徒たちが、いろんな働きかけの中から自分の頭を使い、正確な情報を収集することを学んでいくチャンスになれば、と思う。

Nさんが帰られ、入れ替わりに地域にお住まいのKさんがいらした。出かけるところがあると言いながら、結局、それをキャンセルして話しこんでいかれた。気遣いがうれしい。

学校前の自販機に飲み物を買いに来た青年がプラカードを見ていたのが、Kさんと話し込みながらもわかり、声をかけようかなと私が迷っているうちに青年は帰って行かれた。1時間もしただろうか、また先ほどの青年が現れ、プラカードを見て、「以前テレビで観て、根岸さんとか根津さんとか、記憶にあったのですが、その方ですか」と聞いてこられた。もう十分、わかっていらっしゃる方だった。「がんばってください。応援しています」とおっしゃった。

午後は、近藤順一さんの人事委員会審理を傍聴した。校長、八王子市教委室長、そして近藤さんすべてに対する尋問を1回でやり、審理は終結とされてしまった。公平に審理し、当事者の不利益を救済するのが人事委員会の任務のはずだが、審査員が「公開口頭審理をした」という辻褄合わせにしか、頭を働かせないことの表れだ。

尋問では校長も室長も、「職務命令を発したのは校長の判断、市教委からの圧力ではない」「学習指導要領が目指す卒業式をするために職務命令が必要」とがんばったが、それぞれ後の証言で墓穴を掘ることになった。校長は、「生徒の作品を正面に掲げた卒業式の経験はあるでしょう」と問われて「30代の時には経験したが、そういう卒業式はよくない」と言い、しかし、「そうした発言はしたことがあるか」と問われて「ありません」。室長は、生徒の作品が正面にないのは、「八王子では通達に従っているから」と言ってしまった。校長の20年前を知る当時の同僚であったSiさんは、私の隣で校長の証言に、「お前、嘘だろう」と呟いていた。

校長は、外国籍の生徒が6割在籍するのに、「日の丸・君が代」が加害のシンボルであるとは「考えたことがない」「外国から来た生徒にも国旗国歌を尊重してもらう」と平然と言ってのけたのには唖然とした。

近藤さんの証言は、すがすがしかった。「強制を受け入れている中では、教育はできない。不起立していなければ、私は教員を辞めていました」「不起立は、生徒への、私の明確な態度の表明でもあります」「強制に反対することが、生徒指導の出発だと思っています」。

近藤さんは、3時間半に及ぶ尋問を終えて、夜間中の仕事に向かわれた。




*Nさんが生徒に手渡した「社会科の授業・続き(2)」




日本と朝鮮について考えよう(その2)

 東京都は2016年のオリンピックを東京に誘致しようとしています。都民のあいだにはオリンピックに使う金があるのなら他のことに使ってほしいという声も多くあります。

 東京でオリンピックが開催されたのは今から45年前の1964年ですが、じつは1936年にドイツのベルリンで開催されたオリンピックのつぎは1940年に東京で開催が決まっていたのです。ところが日本の中国への侵略は日本を泥沼の戦争に引き入れてしまってオリンピック開催を辞退せざるをえなくなりました。こうしてベルリンオリンピックが第二次世界大戦(1939~1945年)前の最後のオリンピックとなりました。


 ベルリンオリンピックはヒトラーのナチ党による一党独裁体制のもとでのオリンピックで「ナチス・オリンピック」ともよばれています。このベルリンオリンピックにはマラソンに日本から3名の選手が出場しました。この年のオリンピック出場者を決める国内最終予選で1位、2位を南昇龍(ナムヨンスン)、孫基禎(ソンギジョン)という朝鮮出身選手が独占したため、3名のうち2名は朝鮮出身者ということになりました。「大韓帝国」といわれていた朝鮮は武力による脅しで1910年日本の領土にされ国としての朝鮮はなくなっていましたから、朝鮮出身者は日本チームとして胸に「日の丸」をつけて出場しました。1936年8月9日のマラソンは27カ国57選手が出場し、十万人の大観客が総立ちとなるなか孫基禎選手は2時間29分19秒、オリンピック最高記録で1着となりました。2着はイギリスの選手で、南昇龍選手も3着となりました。この知らせに日本人は日本が世界を制覇したと喜びましたが、二人の出身地である朝鮮は熱狂的な喜びに沸きかえりました。オリンピックの表彰式で「君が代」がながれ、日章旗(日の丸)がポールにあがりましたが、孫選手はう・u桙ツむいたままでした。


後年に孫選手は次のように語っています『優勝の表彰台でポールにはためく日章旗を眺めながら、「君が代」を耳にするのは耐えられない屈辱(くつじょく)であった。わたしは思わず頭をたれた。そうして考えてみた。私が日本国民なのかどうか。(私は)私自身のために走った。そして(日本の)圧政に苦しむ同胞のために走った。これからは2度と日章旗の下では走るまい。涙がほほを伝った。日本人たちには、祖国日本にマラソン優勝の栄冠を捧げた感激の涙である、と説明した』。

8月25日朝鮮の新聞「東亜日報」は社員たちの発案で孫選手の胸の「日の丸」を塗りつぶした写真を掲載しました。新聞発行と同時に「東亜日報」の社員たちは警察に連行され殴るけるの暴行をうけ、とくに中心人物とみなされた5名は40日間にわたる拷問をともなう取り調べをうけました。警察の目的は日章旗を塗りつぶしたのが社長の命令であったと自白させて「東亜日報」社をつぶすことでしたが拷問に耐えてだれも自白しませんでした。結局「東亜日報」は無期限発行停止処分を受けました。この事件は「日章旗抹殺(まっさつ)事件」として朝鮮では小学校の教科書にものっています。


 卒業式や入学式では「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌いますが、わたくしたちがアジアの人々と新しい未来を築いていくためには過去を知り、日本の支配下にあったアジアのひとたちの気持ちを理解し、これまで日の丸や君が代がどのような役割をはたしてきたのかを考えてみることも大切ではないでしょうか。



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