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2009年6月

2009/06/29

6月26日(金)

 あきる野学園に。出勤してくる同僚たちには、昨日都庁前で配ったと同じチラシを手渡した。

 今日は近藤さんとHさんが来てくださった。Hさんは、終日同行してくださった。自転車に乗った女性が自転車を止め、話しかけてこられた。ご近所にお住まいのBさんで、私の発言を以前聞いたとおっしゃる。



6月25日(木)

朝は都庁前でチラシ配り。午後は、多摩中控訴審判決。

都教委の主張をそのまま書き写したごとくの地裁判決を踏襲し、さらに都教さえはっきり主張していないことまで加えた。

「学習指導要領には『家庭や家族の基本的な機能を知り、家族関係をよりよくする方法を考えること』『幼児の生活に関心を持ち、課題をもって幼児の生活に役立つものをつくることができること』などが授業内容とされているものについて、(根津は)男女共生のみ、7時間の授業を行ったものであり、学習指導要領に反するものということができる」と。



6月23日(火)

 あきる野学園に午前中だけ。

 学校に入られようとする女性がプラカードを見て、「どういうことですか」と声をかけてこられた。説明をすると、「私も君が代は嫌いです。強制するなど、おかしいですよね」とおっしゃる。初めて出会った保護者だった。「うちの子どもが起立しなかったら、あるいは、君が代は嫌だと言ったら、校長先生や先生たちは、変な目で見るのかしら?子どもに被害がいくのかしら」ともおっしゃる。私は、東京中の、校長も含め教員たちの多くは起立はしているけれど、「君が代」の強制と処分に反対の気持ちを持っていることを伝えた。そして、「教員がもの言えなくなった学校で、子どもが大事にされないのは必然。だから私は起立しないんですよ」と伝えた。

 しばらくして、再び、その保護者の方は私の前に来られ、福祉切捨ての石原都政や身の回りのことについて話をしていかれた。

 Aさんが、冷えたさくらんぼを差し入れてくださった。口に入れると、甘酸っぱさと冷たさが広がり、とってもおいしかった。今年初めてのさくらんぼだった。



6月22日(月)

 疋田哲也さんの分限免職取消裁判を傍聴した。小平5中当時の校長、教頭、都教委管理主事に対する尋問だった。

疋田さんを小平市教委研修(研修センター)に送ったことについて。校長は、疋田さんが毎日午前午後に送った報告書を「一切見ていない」と言った。その時は、あれっ?いったいどういうこと?と思っていたら、管理主事に裁判長が聞いたことではっきりした。研修成果など、校長たちには関係のないことであったのだ。


裁判長が「研修期間は04年3月までとなっていたのに、分限免職は2月。分限免職を決定するのは、研修結果を見てからでよかったのではないか」「そうしないと研修の意味がなくなってしまうのではないか」「要望書には3月まで教壇に立たせないでほしいとあり、しかし、その要望には反対の保護者もいたのだから、3月で転任という方法もあったのではないか」と聞いたところ、管理主事は、「現場からはずすために研修センターに送ったのだから、成果を見る必要はなかった。分限免職にしてよかった」と言った。

校長・市教委・都教委は、「教壇に立たせないでほしい」という「要望書」を保護者から受け取り、それに沿って疋田さんを研修センターに送ったわけだが、「要望書」を提出した保護者からは事情を一切聞いていないことも明らかになった。



 疋田さんに対し、研修の成果を期待してではなく、分限免職にすることを目的として研修センターに送った。研修センターに送るために、「要望書」が必要だった。保護者の「要望書」は利用の対象でしかなかったのだ。


 疋田さんの分限の理由に体罰もある。疋田さんには、体罰をこれ幸いとばかりに分限の理由とすべく、報告を市教委に挙げたのに、同じ時期、この学校では他にも体罰があり、その生徒は鼓膜損傷したにもかかわらず、その件については報告を挙げていなかった。校長は、「市教委へ報告を挙げるのを忘れた」と見え透いた嘘を言ったが、校長は体罰には鈍感であり、疋田さんの件については、分限の理由にすべく使ったのは明らか。


体罰はあってはならない。「校内暴力」が激しかった頃、「体を張って生徒を抑える」「愛のムチ」ということが中学校では堂々とまかり通っていた。そうした教員と私は激しく対立した記憶がいくつもある。しかし文部省が通知を出し動き出し、体罰が懲戒処分の対象となると、体罰は少なくなっていったが、体罰を使った「指導」について反省を表明した機関や個人はない。疋田さんも体罰を体罰と認識できない環境にあったように思う。研修センターに送られ、研修を受ける中で彼は反省し、現在はDCI「子どもの権利のための国連NGO」の会員だという。


疋田さんが過去のことを消すことのできない事実として、受け止め続けていかなければならない、と私は思う。しかし、だからと言って、分限免職しかたなしとは思わない。体罰を繰り返しておとがめなしに校長や副校長になった人が大勢いる。体罰を指摘した私に口論を吹っかけ、対立したかつての同僚もその例外ではない。そういう人たちがいる一方で、疋田さんにはそれが分限の理由に使われる。恣意的、不公平である。不公平な扱いに黙ってはいけない。それは支援しなければと思うのである。


分限理由とされた体罰を受けたとされる「A君」(処分の理由書に「A君」と記載されているという)が「疋田先生にお世話になった。私が処分の理由にされたと聞いて、今日来た」と傍聴していたことから見ると、「A君」事件は分限の対象から外すべきではないかと思った。


「私物」を理科室・理科準備室に置いたことが分限理由に挙げられていることにも首を傾げるが、その「私物」を何度も写真撮影し、証拠にした教頭(現校長)は、「平成14年15年と変わらず、(今も)疋田さんには反省がない。免職処分は適切だったと思う」と平然と言った。

細かいやり取りについては、事情がわかっていないので、理解できなかったり、聞き逃したりもしているが、3人とも、いくつも嘘を言い、疋田さん代理人から指摘をされ、証拠を突きつけられると、やっと認めるという具合。この人たちには、一人の人間を免職に追い込んだことのためらいは、みじんも持ち合わせないのだろう。「職務」で片付くのだろう。


都教委にとって目障り、消したいと思う人については、どんな手段でも使うことを、私は2001年から1年にわたって受けた多摩中での攻撃で体験済み。「要望書」が使われたのは、私もまったく同じ。やっぱり、と何度も思いながら、3人の悪意に満ち満ちた証言を聞いた。

疋田さんが都教委の計画通り分限免職にされ、私が都教委の読みどおりにならなかったのは、攻撃が始まってすぐさま声を挙げたか挙げなかったかの違いだと思う。声を挙げたことに、大勢の人が応え、動いてくださったから、私は指導力不足等教員にされず、分限免職にされなかったのだと思う。

今からでも大勢の関心が集まることが大事。

2009/06/25

都庁情宣

6.25都庁情宣のちらしです。

 

 

6
.25都庁情宣

「f20090625.pdf」をダウンロード



2009/06/22

6月19日(金)

 あきる野学園に。今朝もAさん、Bさんは、「がんばってください」と言って中に入っていった。悩みを打ち明けるCさんには、適切なアドバイスができず、聞いてあげるだけ。もどかしい。

いつものように近藤さんも「出勤」。近藤さんと入れ替えに、谷口和憲さんがご自身発行の新刊「戦争と性」を持って、来てくださった。

午後、家に立ち寄り、目黒の「あきらめない」の上映会に向かった。



6月18日(木)

鶴川二中へ。Nさんは社会科の授業・続き(3)を生徒に手渡した。手を出し「ありがとうございます」と言って受け取る生徒、周りの様子を見ながら手を出す生徒や出した手を引っ込める生徒など、いろいろ。前2回を読んでいるらしく、「今日のも北朝鮮だ」と叫ぶ生徒もいた。

生徒たちに挨拶をしているところに通りかかった男性が、「停職6ヶ月、いいなあ」と言った。「どうしてですか」と問うと、「クビになって当たり前だよ」とはき捨てるように言い、そのまま去っていった。


立て続けに保護者らしき人が数人、学校の中に入っていかれたので、PTAの会議なのかなと勝手に想像しながら挨拶のことばをかけた。挨拶しても無視する人、顔をそむける人がいる。また、保護者の方から先に声をかけてくれる人もいる。こちらもいろいろ。でも、プラカードを立てて座っている私が何者かは、皆さん、ご存じのようだった。


 今日もお二人の方と出会った。お一人は、バイクを止めてプラカードを見ていられるので、「これは私です」と声をかけた。私と同年代の女性。「同じです、思いは。がんばってください」とにっこりされた。

もうお一人は、犬を連れたたぶん40代の女性が「どういうことですか」と聞いてこられた。起立をしない私の気持ちを話すと、「その気持ちは理解できます」「でも、愛国心を持つことによって、他の国の人たちにやさしくできるのではないでしょうか」とおっしゃる。海外生活が長かったとのこと。



「私も生まれた日本が好き。でも、『愛国心』と叫ぶ時、用心しなければいけないと思う。為政者が『愛国心』を強調する時は、戦争に向かい、ある国を憎ませるときではないのか、『愛国心』を叫ぶ為政者を愛せよということで、国民を大事にするのではないのではないのか」と言うと、「そういう見方があるんですね。それもわかります」とおっしゃる。

「どんな子どもに育てたいか」と聞かれ、「日本の子どもは、小学校に入学した時から、『先生、これやっていい』『これはやってはいけないの』と聞く。指示を仰ぐことを幼い頃から身に付けてしまっている。あるいは、『みんな一緒』と同じことを強制される。指示や強制で動かされるのは、不幸だと思います。自分の頭で考え、行動できる人になってほしいと思います。また、社会がそうなることも、食い止めたいと思います。『日の丸・君が代』の強制に反対する大きな理由がここにあります」と言うと、

「日本の学校がみんな同じことをさせるのは、私もおかしいと思います。うちの子どもが、休み時間にみんなで一緒にボール遊びをしないというので、先生から注意を受けたことがあります。変ですよね」と言われ、不起立することの意味をかなり理解してくださった。こういう出会いがとってもうれしい。


 学区にお住まいのMさんからは、「行くつもりでいたのに、用事ができてしまって。心の中での応援だけれど」と電話があり、Kさんは、用事を済ませた足で立ち寄ってくださった。

 午後は、多摩中事件控訴審が突如延期になり、傍聴してくださる方にその連絡が届けきれず、裁判所に行った。時間が許したので、「君が代」不起立に伴う嘱託不採用の裁判を傍聴し、まだ、時間もあったので、wam「女たちの戦争と平和資料館」を訪ねた。


Nさんが生徒たちに手渡した「社会科の授業・続き(3)」は、以下の通り。




社会科の授業・続き(3)                              


核兵器の廃絶について考えよう

4月5日アメリカのオバマ(Obama)大統領が世界から核兵器(nuclear weapons)をなくすことに取り組むと宣言したのを知っていますか。一方、世界には、核兵器があるからお互いに怖くて戦争を起こさないのだ。核兵器は戦争の「抑止力」(抑える力)になっているから必要なのだという考えがあります。日本政府もこの考えに立っています。2006年に北朝鮮が核実験を行ってから、日本の国会議員のなかに日本は独自に核兵器の開発をすることも検討すべきだと口にするような人たちがでてきています。「一人ひとりの命はかけがえのないものだ」と誰もが言います。それなのに一度に10万人以上を殺すことができる兵器を開発しようという政治家たちの発言をあなたはどう思いますか。


 核兵器開発の歴史は、アメリカがまず原爆を開発、投下し、対抗してソ連も原爆を開発、あとはお互いに相手から悪意を読み取り、脅威を誇大に言いふらし威嚇(いかく)しあい、「抑止力」を口実に軍部と兵器産業が主導して際限のない核兵器開発競争を繰り広げてきたのが実態です。現在アメリカとロシアが保有している核兵器だけで地球上のすべての人を十回以上も殺せるといわれています。わたくしたちは「抑止力」どころか、誤った情報や誤作動による核弾頭ミサイルの発射がひきおこす核戦争の恐怖にさらされているのです。


核の「抑止力」が戦争を防いできたという証拠はなにもありません。第二次世界大戦終了から現在までアメリカとロシア(ソ連)の間で戦争が起きなかったのは、軍部が核兵器の使用を主張したことは何度かありましたが、現実に相手を攻撃しなければならないほどの対立までにはならなかったこと、世界中に核兵器反対運動が広がったこと、そして両国の指導者の対話も継続されたことなどによるものです。


ところで、日中戦争のさなか1939年から43年にかけて日本軍は中国・四川省(シセンショウ)の都市、重慶(ジュウケイ)に大爆撃をおこないました。つづいてヨーロッパで第二次世界大戦が激しくなると、アメリカ、イギリス空軍がドイツの都市を無差別爆撃しはじめました。ドイツの「京都」といわれるドレスデンは東部戦線からの避難民であふれていましたが米英空軍の徹底した爆撃で破壊しつくされました。

もともとはアメリカの戦争指導者のあいだには民間人を殺すことに強い抵抗感があったのですが、戦争が激しくなるとそういう人間的な感情は失われていきました。戦争は「徹底した破壊そのもの」が目的となっていったのです。さらに1945年アメリカ軍は日本の都市に、焼夷弾(しょういだん)を使った無差別爆撃をはじめました。3月10日の東京大空襲については、皆さん知っての通り、東京は焼け野原になりました。ドレスデンと東京大空襲の際のアメリカ陸軍航空隊の司令官カーチス・ルメイ少将は次のように語っています「日本には民間人などいない。いるのは敵だけだ」。 

女性も子供も老人もいるのは「敵」だけで、「破壊そのもの」が目的となったとき、行き着いた先が「原爆」。人間がこえてはいけない「一線」をこえたのです。

人間を「敵と味方」にしか区分しない考えは差別や偏見を生みだし、やがて戦争を引き起こします。こうも言えます。「愛国心」を持ち、敵をにくむことが、戦争をするために必要なことであると。それは、どの時代、どの国でも同じです。


最後に、昨年中国の四川省で起きた大地震で日本政府が自衛隊機で援助物資を輸送しようとしたことを知っていますか?中国側から翼に「日の丸」のついた自衛隊機は受け入れられないと断られました。日本軍が侵略し、殺した中国の人たちのことを日本政府は忘れたのでしょうか。重慶大爆撃の被害者たちが日本政府に補償をもとめていま東京で裁判を起こしています。

核兵器のない社会はこれから生きていくみなさん自身が考えて作っていくものです。



6月17日(水)

南大沢学園に。南大沢に行く水曜日は、今日も一時にわか雨が降ったものの、予報が外れて晴れ。保護者のお二人から、「暑いですから、気をつけてくださいね」と声をかけられた。朝はSさん、Nさんが、午後からはSiさん”、Niさんが来てくださった。

 一人でいた時間、持参したニュースレター類を読んでいると、掃除用具を持った高等部の生徒が、「暑くて大変ですね」と声をかけてくれた。「あなたたちも暑いのに、お疲れ様です」と言うと、「大丈夫です。体力あるから」。「そうよね、若いものね!」と言うと、「はい!!」。

その時読んだものの中に、「登校・下校ということばは、登城、下城の類。学校が『お上』のものであった」ことから生まれたことば、とあった(「たみがよ通信」第7号)。納得。知った以上は使いたくない。何ということばを使ったらいいんだろう。中学生の頃私は朝校門までの坂を上りながら、学校はたいてい小高いところにあるから登校・下校というのかと、思っていた。そんなことを、ふと思い出した。

朝、「喫茶に来てください」と必ずアピールしていく生徒に、行く約束をしていたので、10時過ぎ一人で行き、屋根の下で涼み、アイスコーヒーでのどを潤した。



2009/06/17

多摩中判決日の変更

皆さま

18日に予定されていました多摩中判決が、何と!、今日になって、1週間延期すると、裁判所が言ってきました。変更するにも、早くに言ってほしいものです。
25日(木)16:00~820号法廷 です。
予定に入れていてくださった方、ごめんなさい。
また、皆さま、25日、できましたら、傍聴をお願いします。 

根津公子



2009/06/16

PDFファイル閲覧に関して三題

石川@事務局です。

1 Adobe Reader をお使いの方は、最新版に更新したうえで使用することをお勧めします。セキュリティ対策です。
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2 Adobe Flash Player の最新版を導入することをお勧めします。本ブログでは Adobe Flash を使用しています。
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3 Acrobat.com 正式版の提供が開始され、不具合が大幅に修正されました。本ブログでは Acrobat.com を併用しています。



2009/06/14

6月13日(土)

解雇をさせない会の2009総会と講演「抵抗の灯は消せない! 新たな『皇民化教育』にどう立ち向かうか?」を開催。講演は、山田昭次さんの「関東大震災時の朝鮮人虐殺と秋田雨雀」。自警団に参加し、朝鮮人虐殺に加わっていった当時の人たちの、進んで国家のために身を捧げるように手なづけられた国民意識について指摘した秋田について。


「お前のやったすべてのことはおまえの身になって帰ってくるのを知らないのか?/お前の敵はお前の迷信の中に巣くっているのを知らないのか? 

市民よ!/制服と屈従と野蛮と無反省を美徳として教えたのは誰だ

市民よ!/お前の敵は果たして誰かよく見よ!/お前は何を血迷っているのだ?」


自身の中に巣くう迷信あるいは世間と向き合うこと、これは今日的問題、今の私たちの問題だ。


 続いて、昨年、今年の「君が代」不起立教員であるDさん、Eさん、近藤順一さんが思いを語られた。Dさんは生徒との関係性の中で、「生徒に嘘はつけない」とおっしゃる。Eさんは、不起立は団塊の世代がいなくなってからと先延ばしにしてきたが、今年「主任教諭」が導入され、学校がいよいよめちゃめちゃにされる中、処分を受ける不起立を選択されたとおっしゃる。お二人の話を伺うのは、初めて。とっても共感した。


 名古屋の小野政美さんから、当地で集会をするので「気持ちで参加。気持ちは参加」と電話があり、メッセージをいただいた。私(たち)を支えてくれる。

以下、一部割愛して掲載する。


ひるまず、あきらめず、しなやかに

~「河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会」2009総会へのアピール~


2009.6.13 小野 政美(愛知・小学校・「再任用」教員)


思想・信条・良心の自由を蹂躙する「日の丸・君が代」強制に反対する人々がいる

「日の丸・君が代」で処分された全国の人々がいる

そして、日本社会で自由と平等の抑圧に抵抗する人々がいる

それらの人々をつなぎ、さまざまな場で、

あきらめず、ひるまず、しなやかに、多彩に闘い続ける人々がいる

それらの多くの人々に、闘う勇気と確信を送るかけがえのない闘いがある。

それが、根津さん河原井さんを解雇させないという闘い。

合い言葉は、二人の著書。

河原井純子『学校は雑木林』

根津公子『希望は生徒』




2008年3月31日の雨の朝、

東京・八王子・南大沢学園養護学校前の光景を僕は忘れない

「やったぞ~!」「勝ったぞ~!」「この雨は天のうれし涙だあ!」

予想に反しての都教委の処分内容に、思わず泣き叫んでいた僕たち。

誰彼と言わず泣きじゃくり、抱き合って喜び合ったあの雨の朝の南大沢学園養護学校校門前。


そして、1年後、

2009年3月31日、水道橋、東京都研修センター前での処分発令の日のこと。


2008年3月31日の雨の朝、

僕は、マイクで叫んでいた。

「全国の人々に伝えます。

都教委は、根津さんを免職にすることが出来ませんでした。

根津さんは、都教委に勝ちました。

『君が代』不服従・不起立の闘いは、今日から新しい段階に入りました。

『勝って兜の緒を締めよ』の言葉通り、

気を許さず、粘り強く闘い続けていきましょう」


「君が代」斉唱時の不起立での6か月停職は、決して喜ぶべきことではない。

都教委が宣言予告していたように、誰もがそう思いこんでいたように、

根津さんへの停職6か月処分の次に来るのは免職しかない、

僕もまた、そう思いこんでいた。

だが、根津さんだけを他の処分者と分離し、

勤務先養護学校に出向いて処分発令するという姑息な手段を弄した都教委をしてもなお、根津さんを「みせしめ免職」にできなかった。


なぜ都教委は根津さんを免職に出来なかったのか。

それは、何よりも、「君が代」不起立で、

子どもたちの人権と教員の教育の自由・思想良心の自由を守り抜くために、

「不起立」という表現手段で抵抗する教員を免職する根拠がどこにもないことである。

同時に、全国各地で、そして、幾つかの外国から、

根津さんへの「君が代」免職を許すな!と、

電話・FAX・メール・署名という方法で、

あるいは、僕も何回か同行した、都教委への出向いての連日の要請で、

あるいは、集会や学習会で、

あるいは、裁判の傍聴で、

あるいは、「『君が代』不起立」や「あきらめない」の映画会で、

新聞への意見広告で・・・、

根津さん河原井さんの不服従・抵抗・闘いに連帯・支援する、

文字通り草の根からの多くの良心的な人びとによる、

多様で多彩な活動があったからに違いない。


もしも、

根津さんが、河原井さんが、

子どもたちとともに生きる現場で、

自分の生きている存在のすべてを賭けた不屈の抵抗・闘いを続けなかったとしたら・・・、根津さん河原井さんの抵抗・闘いに、誰も連帯・支援の行動を起こさなかったとしたら・・・、もしも、連帯・支援の行動が、大きなうねりのように広がらなかったら・・・、

大方の予想通り、都教委の処分は、

根津さん免職しかなかったであろう。


「(03年)10.23通達」以来、

423名の処分(2009.5.29現在)を発令し続けてきた都教委をして、

根津さん河原井さんを免職解雇することは出来なかった。


小学校現場勤務31年間、

ささやかに、「君が代・日の丸」不服従の抵抗を続けて来た。

根津さん河原井さんの不服従・不起立に連帯することはもちろんとして、

僕の出来る、僕が当然しなければならない、

支援というより、根津さんとの連帯のささやかな行動。


根津さんの笑顔を見ながら記憶の底から甦ってきたことがある。

数年前から、僕が、幾度となく語ったり、アピールしてきたことでもあるが、

根津さんの不服従の戦いの中で、

旧日本軍性奴隷(旧日本軍「慰安婦」)にされた韓国のハルモニたちの戦いが

想起されるということである。

1990年、日本政府の「『慰安婦』はいなかった」という発言に対して、

韓国の金学順(キムハクスン)ハルモニが、韓国挺対協の呼び掛けに応えて、

「私は、旧日本軍の『慰安婦』だった」と勇気ある名乗りを挙げた。

そして、1991年、いまは亡き姜徳景(カンドッキョン)ハルモニ、金順徳(キムスンドク)ハルモニ、いまも戦い続ける李ヨンスハルモニ・・・と続いた。

日本政府の公式謝罪と個人賠償を命を賭けて戦い続けたそのハルモニたち被害女性の多くが既に亡くなり、

韓国では生存者は93名、台湾では18名しか残っていない。

91年以来、ささやかな支援の運動の中で、

韓国で、日本で、『ナヌムの家』で、

姜徳景ハルモニや金順徳ハルモニたちに息子のように、僕は、優しくしてもらった。

もしも、彼女たちの辛く厳しい戦いが無かったとしたら、

女性への暴力を許さない戦いは、これほどの高揚を迎えることは無かったに違いない。

しかし、ハルモニたちは、韓国でも、日本でも、運動の中でさえ、

孤立した厳しい戦いをするしかなかった時が幾度となくあった。

彼女たちと長年にわたって同行する機会があった僕には、ただ、

一緒に涙し、辛い時間を過ごすしかなかったときが何度もあったことだけは確かである。



根津公子さん河原井純子さんの戦いは、

まさに、日本における、「良心の自由」の戦いのなかで、

女性への性暴力との戦いにおけるハルモニたちの戦いを想起させるものである

と言っても過言ではないだろう。

少なくとも僕はそう思って、

長い間、根津さん河原井さんと戦いの戦列をともにしてきたつもりである。


そして、もうひとつ、2008年3月31日の朝、

予期せぬ、根津さんの、2度目ながらも、

6か月停職という「勝利」への満面の笑顔を見ながら、

私は、10か月前、2007年5月27日に京都で開催された全国集会のことを思い出していた。

実行委員会・事務局として、集会アピールの準備が出来ていなかったので、

前日、根津さん河原井さんとも相談し、

集会当日の実行委員会会議で、集会アピールを行うことを提案し、

その会議で、実行委員会と呼びかけ人の名において、

急遽、僕が原稿なし、文案なしで、「5.27全国集会アピール」を行うことになった。

  (中略:「5.27全国集会アピール」について)


根津さん、河原井さんたちに繋がる連帯・支援の戦いの列に加わる

多くの仲間たちとともに、

僕の好きな二人の不服従の思想家、

魯迅とベンヤミンの言葉を噛みしめたい。


「思うに希望とは、もともとあるともいえぬし、ないともいえない。

それは地上の道のようなものである。

もともと地上に道はない。

歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」     

魯迅『故郷』(1921.5)<竹内好訳>  


「夜の闇のなかを歩みとおすとき、

助けになるのは、

橋でも、翼でもなく、友の足音だ」

ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンの生涯』(野村修訳・平凡社)



6月12日(金)

あきる野学園に。近藤さんももちろん「出勤」。校門前の桜の木がつけていたさくらんぼが熟れた色合いになった。4月終わりからずっと目をつけていた。長身のCさんに取ってもらって食味した。渋味や苦味が強いが、甘さはあった。確かにさくらんぼの味がした。登校して来た何人かの生徒にも見せすすめたが、食用ではないと知って彼らは遠慮した。

午前中の少しの間、校外学習の子どもたちを見送り、出迎え、所用のため10時「退勤」した。



6月11日(木)

立川二中へ。昨夜からの雨が昼近くまで続く。今日入梅宣言したとのこと。

Nさんは「社会科の授業・続き(2)」(先月鶴川二中で配られたベルリンオリンピックでの孫選手の日章旗抹殺について)を生徒たちに手渡された。「ありがとうございます」という生徒も、手を出さない生徒も、いろいろ。地域の挨拶隊の方は、今朝はお一人。

 今朝も卒業生のBさんが自転車で通り、挨拶を交わした。Kさんが仕事の前に立ち寄ってくださった。今日ここで新しくことばを交わした方は、学校に入って行かれた業者の方お一人のみ。プラカードをご覧になって、「大変ですね」と言ってこられた。

 午後は増田都子さん分限免職の地裁判決を傍聴した。傍聴席50の倍の方がいらしている中、厚かましくも傍聴させてもらった。普段はよくしゃべる渡邉弘裁判長は、姿を現し礼をすると、増田さんの顔も何も見ずに判決をほとんど聞き取れない声で読み上げ、そそくさと姿を消した。「棄却する」だけがわかったこと。

研修所に送り込んでも彼女を指導力不足等教員と認定できず、裁判では当時の校長が原告側証人として出廷し、彼女がいい授業をしていたこと、服務にも何の問題もなかったことを証言されたのだから、免職は処分権の濫用と認定するのではないかとかすかな期待をしていたが、判決は、都教委の主張をそのまま認めたもの。

「原告には、中立・公正に教育を行う教育公務員としての自覚と責任が欠如する」「研修期間中や勤務時間外の原告の言動を適格性欠如の徴表事実の一つとして勘案することになんら問題はない」から、分限免職は妥当だと言う。「公正・中立」の中身を検討した形跡はない。都教委の出先機関のごとくの東京地裁を、今日も更新してしまった。

 都教委は今日の判決を楽観して待っていたのではないはず。このお墨付きの判決に勢いを得、昨年策定した「分限対応指針」の「職務命令を拒否する」等を使った、もの言う教職員への分限免職を開始するであろう。「分限対応指針」をつくった都教委の最大の狙いはここにあるのだから。分限免職を執行させない取り組みをしなければ。



6月10日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。今年は南大沢に「出勤」すると、必ず晴れて暑くなる。今日も一日中曇りという予報だったのに、途中から晴れてきて、蒸し暑い。校外学習に行き来する子どもたちの中には、湯気を出している子もいた。

 今朝、高等部の一人の生徒が、プラカードを見てしばらく歩を止めていた。「お話しするの初めてよね。これ、私のことって、知っていた?」と話しかけると、「それは知っていたけれど、どういうことかはわからなかった。どういうことかなと思って」。そこで少しばかり説明をした。「わかりました。がんばってください」と言い、頭をぴょこんと下げて、中に入っていった。

 お子さんを送ってこられたAさんのお母さんが、「まだまだ解決はできないんですか」と声をかけてくださった。「あの都知事では、まず無理でしょうね」と答えると、「石原都知事は、福祉も切り捨てするし、早く辞めていただきたいですね」とおっしゃる。早朝から来てくださった御近所のSさんと、「私たちの周りに石原都知事を支持する人はいないよね。どこに支持する人がいるんだろうか」という話になった。

 Sさんが帰られ、一人読書をしていると、頭の上で声がした。昨年知り合ったご近所の女性だった。しばらく、話し込んで行かれた。

Saさんも来てくれた。



6月10日(水)

 あきる野学園に。3回続けてあきる野学園の「出勤」日に雨だったので、2週間前に都庁前で配ったチラシを今朝やっと同僚たちに配った。今日は一日中曇りの非常に過ごしやすい気候だった。

 ご近所にお住まいとおっしゃる60代と思われる男性と出会った。プラカードの前で立ち止まり、「いつのことですか」と聞いてこられた。「今はマスコミで取り上げていないから」とこの件は過去のことと思われていらした。土肥校長の提訴のニュースから「君が代」処分まで、今まさしく「戦前」の学校の現状を説明した。「停職6ヶ月はひどいよね。生活厳しいでしょう。がんばってください」。優しい声だった。

 今日も校外学習の子どもたちを見送り出迎え、スクールバスの方と話をし、ゆったりした時を過ごした。



6月9日(火)

 あきる野学園に。3回続けてあきる野学園の「出勤」日に雨だったので、2週間前に都庁前で配ったチラシを今朝やっと同僚たちに配った。今日は一日中曇りの非常に過ごしやすい気候だった。

 ご近所にお住まいとおっしゃる60代と思われる男性と出会った。プラカードの前で立ち止まり、「いつのことですか」と聞いてこられた。「今はマスコミで取り上げていないから」とこの件は過去のことと思われていらした。土肥校長の提訴のニュースから「君が代」処分まで、今まさしく「戦前」の学校の現状を説明した。「停職6ヶ月はひどいよね。生活厳しいでしょう。がんばってください」。優しい声だった。

 今日も校外学習の子どもたちを見送り出迎え、スクールバスの方と話をし、ゆったりした時を過ごした。



2009/06/07

6月5日(金)

 あきる野学園に。近藤さんとライターのNさんがいらした。

近藤さんは同僚たちにチラシを手渡した。私も都庁チラシを配る予定でいたが、今日も雨だったので、持ってこなかったのだが、近藤さんのご自宅・川崎は雨ではなかったという。ここから遠いことを再確認した。夜遅い帰宅なのに、毎週金曜日には早朝から「出勤」に同行してくださる。ご自身のこととしてされているのだから、「くださる」のではないか?でも、私にはとっても大きな励ましである。ありがたい。

学校公開日ということで、大勢の方が出入りされた。プラカードを見て頭を下げられる方がいたり、訊かれて私が案内役となったり、何人かの保護者とは立ち話をしたり。校外学習の子どもたちに声をかけ、スクールバスの方ともおしゃべりをしていたら、時間は瞬く間に過ぎていった。



〈近藤さんが手渡したチラシ〉




「日の丸・君が代」被処分通信

経過報告 四七  2009.5.23

八王子市立第五中学校夜間学級                                 
被処分者 近藤順一

「日の丸・君が代」強制・不当処分に対する公正な人事委員会裁決を望む

~報告:07.08処分の人事委員会 口頭審理(5/21)~


 まず、傍聴にきていただき、3時間20分という長丁場を耐えた皆さまに心からお礼申し上げます。私の処分発令時などにいつも駆けつけてくださっている方々を背に、心強く証言できました。そして、初めてこのような場に来られた方々にもお会いして身の引き締まる思いです。

 証人尋問は、07.08年卒業式における不起立、被処分時の校長、八王子市教委指導室長、そして私の順に行われました。

 校長・指導室長は、あくまでも自らの意志で職務命令や市教委通達を発したことを述べました。都教委の2003年「10.23通達」は参考としたと言い張ります。毎年の職員会議で卒業式実施要項(案)が審議されるとき、必ず「10.23通達」と市教委通達が全教員に配布されます。そして式次第から「国歌斉唱」を削除することを提案しても最後には校長の判断で通過し、職務命令が発せられます。都教委は「日の丸・君が代」強制を隠して、直接的には職務命令違反で私を処分し続けています。ここにこの問題のポイントがあります。学校現場が行政によって教育内容にまで介入されたとき、それが校内問題として処理されるのです。逆に言えば、徹底した教職員の議論、保護者や地域住民をも含めた方々との話し合いが不足しています。

 証言内容について校長が「外国からきた生徒にも国旗・国歌を尊重してもらう」といったときには思わず声が出そうになりました。教育的想像力なくしては、強制も尊重も区別がつかなくなるのでしょうか。

 私の証人尋問では、以下の諸点を述べました。

(1) 都教委の「10.23通達」が発せられてから、その強制を受け入れてしまうのかどうか、教育の自由を奪われ強制を受忍しても生徒の前に立てるのかという激しい内心の葛藤があったこと。

(2) 都教委による強制は一過性のものではなく、処分もエスカレートしているので、現場での持続的な抵抗がなにより必要なこと。都教委の強制を白日の下に明らかにすること。

(3) 「日の丸・君が代」強制は、象徴天皇制を利用して強行されていること。その強制のメカニズムは、屈服、諦め、迎合を伴う戦前の相似的反復であること。

 都教委側代理弁護士による尋問で、私の06年不起立(市教委指導措置)について、「処分を望んだのか」などと見当違いの問いを発していたが笑止千万。さらに、「生徒の前で不起立したのは、あなたの考えの表現か」と聞いてきました。私は「教育はその場や今日・明日の効果ではなく5年、10年の影響をもつもの」と応えました。都教委は、不起立・不斉唱が何か教育とは別のものの表現と印象づけようとしています。

 さて、これまでの前例では、人事委員会の裁決は都教委に追随、迎合した厳しいものとなっています。私は、現場の教職員の皆さまをはじめこの問題に関心のある方、そして広く都民の皆さまにも訴え続けてまいります。07・08処分に対する口頭審理は今回のみで終了とされましたが、東京都人事委員会が、公正な審理、裁決を行うことを要求していきます。皆さまもぜひ下記まで声を寄せていただければ幸いです。

東京都人事委員会事務局任用公平部審査室
〒163-8001 東京都新宿区西新宿二丁目8番1号
第一本庁舎北塔38階 電話 (03)5320-6946 FAX (03)5388-1755



6月4日(木)

 若い人たちに話をする機会が与えられ、出かけた。



6月3日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。雨が落ちそうで落ちない過ごしやすい一日だった。

今朝は大幅な遅刻、すでにNさんはいらしていた。ちょうどそこにSさんもいらして、3人で登校・出勤する人たちを迎えた。かつての同僚たちには、「この新聞記事面白いから読んでみて」と、先週都庁前で撒いたチラシを手渡した。

 今日から中3の修学旅行。歩きで登校してくる生徒たちには、「いっぱい楽しんできてね!」と声をかけた。みんな、うれしそう。

 一昨年度私が担当した現高1の生徒のほとんどのクラスで、今日は校外学習が行われた。一人で通学している生徒は、今朝も挨拶を交わしていたが、スクールバス通学の生徒の多くとの直接対面は昨年以来であったり入学式以来であったり。「○○さん」「△△ちゃん」と声をかけると、みんなしっかりわかってくれて、最高の笑顔をくれたり、全身で気持ちを伝えてくれたり。Aさんは私に、自分のノートを見せてくれた。「とっても上手だよ。がんばっているね」。彼の目を見て言うと、私をじいっと見ながら、うれしさいっぱいに応えてくれた。Bちゃんが覚えていてくれたことには、最高の感激。一瞬の触れ合いではあったが、彼女の急成長がよくわかり、とってもうれしかった。

 ここのところ2階の職員室の自席から180度向きを変えて立ち上がり、外(私)を見る副校長の姿を目撃していなかったが、今日は頻繁に目にした。Cさんのお母さんと立ち話をした、その時にも副校長は私を見ていたそうだ。「上からこちらを見ていますよ」とお母さん。保護者までがそれに気づくほどに。

Dさんのお母さんに出会ったので、彼に声をかけたときの様子(「しっかり私を認識し、すごい笑顔でこたえてくれたのよ」)をお伝えしたら、お母さん、喜んでくださって、「いつも気にかけてくださっていて。先生に戻ってきてほしいです」と言ってくださった。咄嗟に、私を弾圧することを大事な職務と認識していたとしか思えない校長の顔が頭をかすめ、お母さんに返すことばを呑み込んだ。

 10時頃来てくださった清水さんも、今日の私のうれしさを一緒に感じてくださっただろうな。



6月2日(火)

 あきる野学園に11時まで「出勤」。午後は、アイム‘89の2人の控訴審1回目を傍聴し、その後私と河原井さんの06年控訴審の進行協議。



2009/06/01

5月29日(金)

 激しく雨が降る中、朝だけあきる野学園に「出勤」した。近藤さんは今朝も来てくださった。午後は入学式での不起立者への処分発令があるというので、その抗議と当該への激励に行くつもりであったのだが、近藤さんから、それが中止になったことを教えてもらった。今朝発信されたメールというので、家に帰り、心当たりに電話をかけた。でも、すでに不在の方ばかり。

 午後は、沖電気(株)を27年11ヶ月前に解雇された田中哲朗さんの門前行動に参加した。彼は、私の校門前「出勤」の師匠でもある。

追:入学式での不起立者は、3回目の不起立・被処分で、減給3ヶ月だった。これまでは(一人を除き)3回目の処分量定は減給6ヶ月であったのに、今回はなぜ3ヶ月なのか?裁判で争われることになるだろうに、それに優る、累積加重の刻みを小さくすべき都教委事情があるのだろうか?



5月28日(木)

 都庁前で、情宣、チラシまきをした。雨は降るし、何人の方が集まってくださるか、心配であったが、15人で行うことができた。来てくださった皆さん、ありがとうございました。

今日のチラシの内容は、表面が「石原都政に批判と怒り、こんなにも!」と題して「都政新報」(=都庁・教育庁関係の管理職が購読する新聞)4月14日号の記事を掲載した。記事は、「石原都政10年 都庁職員の声」の見出しで、役職にある人たちの声を掲載。「劇薬がもたらした副作用」「優秀な人材を潰した10年」「忠実なロボットの組織に」「忠誠バッジごっこ」等の小見出しで、実態を憂いている。また、「問われる職員の覚悟」の小見出しで、「期待すべきことは、現知事に対してではなく、その先を見据え、都政を支え続けるという職員一人ひとりの覚悟ではないだろうか」という発言もあった。

 都庁でも学校でも、同じことが進行している。まさに、「職員一人ひとりの覚悟」が都民のための都政に学校に、必要と思う。

 午後は、私を含め東京教組組合員の、04・05年不起立の裁判。



5月27日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。Sさん、Nさん、Tさんが早朝から来てくださった。みんなで登校・出勤する生徒や教職員を迎えた。タクシーの運転手さんが、窓を開け、「がんばってくださーい」と声をかけてくださった。

 ここで私が出迎えると、いつも最高の笑顔で応えてくれる生徒の一人が、今朝は時間になっても登校してこない。どうしたんだろうと思っていたら、やや遅れてお母さんの車で登校。お医者さんに行ってきたとのことだった。生徒は今朝もとっても喜んでくれ、笑顔をたっぷりプレゼントしてくれた。

 一緒に仕事をしてきた人たちが、「根津さんの姿を見ると、今日は水曜日って、思うのよ」「根津さんが来る日は決まって、暑い日だよね。今日も暑いから気をつけて」と言う。07年は嵐のような日もあり、雨天の日がかなりあったが、昨年・今年の水曜は晴天ばかり。今日も、午前中いただけで体はしっかり熱を溜めてしまった。

 午後は、疋田さんの裁判を傍聴した。分限免職にされた、その前の勤務校の教頭が処分者側証人として、また、その学校の保護者が疋田さん側証人として証言をした。教頭は当然のこと、疋田さんがいかに教員不適格であるかを証言したのであるが、その後証言台に立った保護者は、「教頭先生が疋田先生について、当時言われていたこととまったく異なる証言をされたことに驚いています」と述べられた。その証言は、この処分が組織的、計画的に行われたものであることを確信させるものであった。

処分者側代理人は、保護者に対して終始、恫喝するような口調で尋問をしていた。まさに、都教委代理人!であったが、憲法や法律を駆使して仕事をする弁護士とは思えなかった。まるで、体罰を教育と取り違えている教員のように私には映った。

 午前中に熱を帯びた体に、蒸し風呂のような裁判所内の暑さは堪えた。



5月26日(火)

朝だけあきる野学園に。



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