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2010/05/25

「日の丸・君が代」被処分通信

経過報告 五七 2010.5.25
累積加重処分取消訴訟 原告  近藤順一

第一回口頭弁論(5/17 原告本人陳述)への感想・意見

前号でも傍聴していただいた方のご意見を掲載しましたが、引き続き重要な指摘がありましたので続報します。ありがとうございます。

*・・・闘いの原点がよくわかります。裁判官がこれを理解できなければ、三権分立の一翼を担う司法の責任者の資格はないと、実感します。及ばずながら、共に闘いましょう。
*    一人ひとりの生徒の思いに目を向けた真の教育者の姿を判事は司法の立場から正しい判断をしてもらいたいと強く思うものです。
*タイでは軍隊が反対勢力(といっても国民です)に対して、あたりまえのように武力で対しているニュースが報道されています・・・そういう時代が再び来ないようがんばりたいです。
* 先生の「意見陳述」では・・・教員に対する強制による全面的統制が目指しているものが何かが指摘されていないように思います。私見を申しますと、東京都教育委員会は、強制による全面的統制によってロボット下した教員を通じて「愛国心」つまり日本ウルトラナショナリズムを児童・生徒に注入しようとしているのだと思います。

不起立・不斉唱の意義 
~裁判官にも、そして現場の教職員にも訴える~

1,都教委の言い分、判決文の論理
最近の口頭弁論での都教委側の尋問には、"不起立・不斉唱は保護者に不快感を与える""児童・生徒に動揺を与える""そのことに配慮したのか"、というもの。また、判決文では"児童・生徒に範を示すべき教員が""生徒・保護者・来賓の面前で公然と不起立・不斉唱を行い職の信用を傷つけた"という。
不起立・不斉唱者が「日の丸・君が代」を受け入れがたいとする思想、良心を認めつつも、公務員としては耐えて受忍せよ、起立・斉唱はその思想、良心を表明するものではない、儀礼の場での作法を教えるものだという。そして、一貫して処分を構えた強制、特に教育内容への介入、不当な支配を隠蔽している。
「10.23通達」から7年になるが、その本質について未だに都民への理解が進まず、現場が強制を受け入れているかのごとき状況を呈していることから、対抗軸が曖昧にされている。これを打破していくことが当面の課題であろう。

2,不起立・不斉唱の多様な理由
これまでの陳述などで表明された不起立・不斉唱の理由はいくつかある。

A:強制は、これまでの教授理念、自主、自立の指導に反するので立てない。
B:「日の丸・君が代」が歴史的に果たしてきた役割を考えるとその強制に加担できない。
C:強制に対する抗議の表明。
D:思想、良心の自由に対する侵害を回避する。
E:宗教的信仰による。

 このほかにも理由があろうが、その形態は、式場での不起立・不斉唱、式場での他の公務、場外退出、休暇などがみられる。この問題での憲法19条関連においては、不起立・不斉唱は受動的、防衛的であり、各個人の問題である。もちろん個別の思想、良心の自由は守られなければならない。ただ、都教委及び最近の裁判所の判断は、「苦痛」だろうが受忍して公務、即ち児童・生徒への「指導」に当たれ、と述べている。処分を構えた強制という「反教育」をあたかも正常なもののように転倒して描いている。
 ここから、我々の行動と論理はどのように展開すべきかを考えたい。 

3,3つの拒否と3つの提示
教員の教授の自由は限定されたものであり、都教委の強制下ではさらに抑圧される。その中でも、児童・生徒の前から逃げずに、直接の人格的接触をはかる、つまり公務を遂行するならば、公務としての不起立・不斉唱にはどんな意義があるか。

<教員としての3つの拒否>
1,教育課程への強制を拒否する。
都教委―(市区町村教委)-校長ルートの違憲、違法性を明確にする。「10.23通達」は教育内容への規制であり、教職員の一挙手一投足を縛るもの。教員の教授の自由、学校の自主性を踏みにじるやり方。現在進められている「道徳教育」「愛国心教育」の強制に道を開く。
2,国家忠誠の表明を拒否する。
いかなる法、学習指導要領、文科省解説にも"起立"は示されていない。国旗国歌法成立時の政府見解では"君"は天皇、"君が代"は我が国、その歌詞は我が国の末永い繁栄と平和を祈念、とされている。起立か不起立かは、「日の丸・君が代」への賛意か不賛意かを示すのではなく、国家忠誠表明の強制を受忍しているかどうかを示すことになる。
3,プロトコール(国際儀礼)の強要を拒否する。
強制と尊重、強制と一般的敬意、学校教育での強制とオリンピック等での慣習とは異なる。儀礼の強要は国際的信用を失う。

<児童・生徒への3つの提示>
1,教員としての存立の精神的・肉体的危機即ち急迫不正の圧迫に対する正当防衛行為は認められるべき。不起立・不斉唱によって児童・生徒に非暴力・不服従の意味を教えることは重要な政治的教養の獲得として尊重されるべきである。(教育基本法14条)
2,学習の自由、教授の自由を保持すること、異なる考え異なる行動の存在を承認することによって学習は始まる。そして、自由権(思想良心の自由・宗教の自由)、社会権(教育の自由)などの基本的人権を尊重することの意義を示す。
3,「愛国心」「国家・国旗・国歌」「国際儀礼」等を学ぶきっかけとなり、個性の尊重、多文化共生への学習を進める。なぜ、処分を構えた強制下でも不起立・不斉唱を実行するのかを問いかける。

 都教委の進める「日の丸・君が代」強制は、教職員の思想良心の自由を侵害しそれを通して児童生徒、国民への国家主義注入をねらっている。それは、「国益」と「国際貢献」の名の下に軍事力行使を含む抑圧、侵略にのり出す思想動員である。
同時に教育内容への不当な支配による教育の自由の侵害である。その中でも公務として直接の人格的接触を通じて児童生徒の学習権を保障しようとする不起立・不斉唱者への懲戒処分は、自由な教育実践に対する弾圧である。その影響は極めて甚大であり、職階制による教員統制、「愛国心」「道徳」等教育内容への介入に道を開いている。
戦後教育史にはその時代を背景として突出した争点が刻まれてきた。墨塗り教科書、教育委員任命制、学テ、勤評、戦争責任・戦後責任に関わる教科書問題、最近では「沖縄集団自決」への軍命令問題などなど。今日の「日の丸・君が代」強制、処分は、教育内容への権力的介入、教職員への過酷な処分から見てもたぐいまれである。有無を言わせぬ直接強制という点では、"墨塗り教科書"にも匹敵するのではないか。
「先生は『進駐軍の命令ですから、言われたとおりしっかり塗りなさい。』命令口調です。墨を塗る箇所がどういう箇所か、その箇所がどうしていけないのか、先生の説明はありませんでした。色々質問すると先生はますます不機嫌になって、『言われたとおり黙ってやりなさい。』と大声で怒鳴るように言うのです。今にして思えば、先生はずるいと思いました。」(坪内廣清『国民学校の子どもたち』<昭和20年当時、初等科6年生、男子>)
65年前の子どもたちと教員の姿を、我々自身を映す鏡とせざるを得ない。

入学したばかりの小学1年生から高校生まで、日本人、外国人を問わず一律に起立・斉唱させる、というわけだ。私が不起立・不斉唱の意味を考えるようになったのは、処分を受けても果敢に行動する方々を見たからである。「10.23通達」直後すぐに闘いを開始した都立学校の先生方、停職処分を執行されても"停職出勤"や"全国行脚"を継続する方、分限免職により身分を剥奪されても"自主講座"を推進している方もいる。
裁判官の皆さま、東京都公立学校の教職員の皆さま、そして都民の皆さま、この問題を深く考え、それぞれの持ち場で、1日も早く強制を止める取り組みを開始しましょう。私の提起が、そのためのささやかな材料となれば幸いです。



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