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2010/09/12

「日の丸・君が代」被処分通信

経過報告 六〇 2010.9.12
累積加重処分取消訴訟 原告  近藤順一

学校―自由をめぐる激動の現場で
~裁判官の儀式・不起立認識~

 前号で都教委が不起立者をどう見ているかを提示した。都教委が裁判所に提出している準備書面から見ると"反教育者""反議会制民主主義者""儀式破壊者"ということになる。今回は、裁判官が儀式と不起立者をどう判断しているかを見る。判決文には、原告・被告双方の見解と裁判官の判断が混在しているので慎重を期さねばならない。
 直近の2つの判決文から検討する。それは、①高裁判決(園尾裁判長、再任用拒否処分取消請求・木川控訴人) ②地裁判決(青野裁判長、処分取消請求・小中原告10人)である。

硬直した固定観念 ~「厳粛」~

 まず①において裁判官の見解は次の点である。
「高等学校における卒業式は、学校行事の中で最も重要なものの一つであり、生徒だけでなく、多数の父兄や来賓も参加、参列し、厳粛な雰囲気の中で、行われるべき式典であることは公知の事実であり、上記職務命令は、この卒業式の実施に関して発せられたものである。多数の生徒、父兄、来賓が出席し、卒業生を送り出すという厳粛な行事を執り行うべき卒業式の会場において、これらの参加者の大多数が起立する中で、一部の教職員が起立しないことは、出席者に違和感を与え、式典の厳粛さを大きく害することであり、これが我が国の未来を担う若者の教育の現場で行われたことを考える」(判決文P9~10)
 この短い文章の中で「厳粛」が3回も出てくる。憲法判断は原判決を踏襲するとして、高裁裁判官の卒業式の見方は上記のごとくである。ほとんど論理というものを持ち合わせない表面の情況を追認するだけで、思考の劣化をうかがわせる。それを「公知の事実」とするのは独善であろう。(「父兄」の表現にも違和感がある。)
裁判官には、卒業式が「日の丸・君が代」をめぐって激しい対立と生徒をはじめ参加者のそれぞれの考えが渦巻いている現場であることは理解の外である。職務命令は一律起立・斉唱を強制するために突きつけられた刃である。「違和感を与え」ることになっても、強制・統制・処分強迫を拒否し、多様な考え・行動を「若者」に提示するのが職務である。それが不起立の意義である。

「不起立者に逃げ場はない」

②において裁判官の主な見解は以下の諸点である。
「卒業式等は、厳粛さが要求される儀式的行事であるから、その中では一定の形式に沿った実施が必要な部分があり、この点について本件実施指針が定める式典形式が不相当なものとはいえない。」(判決文P140)
またまた「厳粛さ」である。「一定の形式」「式典形式」は必要とのこと。本当に「10・23通達」「実施指針」を読んでいるのかと疑う。そして不起立については次のように断定する。
「『職の信用を傷つけ・・・るような行為』とは、その文言に照らしても、具体的に信用を傷つけた行為のみならず、信用を傷つけるおそれが客観的に認められる行為も含むものと解されるのであり、具体的な混乱や進行上の支障が生じたという結果の発生を要求していると解することはできない。」(P161~162)
不起立者が「単に着席」とか、保護者からの「クレーム」が寄せられていない等と釈明しても一切情状酌量の余地はないというもの。さらに「おそれ」までも対象とされ、曖昧な態度は許されないという。

もう一つ②の判決の特徴は、儀式以外での国旗・国歌教育を禁止していないから、「児童・生徒に一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものではない。」と述べていることである。
「社会科等の授業においても取り扱うものとし、国旗・国歌の意義の理解は社会科の授業において行うものとしていることが認められる。」(P134)
儀式での強制、一律起立・斉唱が結論づけられている中での「学習」は、子どもを欺くものである。強制を強制とも感じさせないための「誘導」は教育の名に値しない。こうして、学校現場の教職員には職務専念義務が課せられている勤務中の公務員としての行動が問題とされている。不起立者は自らの立場を明確にしなければならない。

累積加重処分取消裁判 第3回口頭弁論
 10月7日(木)16:30~
東京地裁 527号
( 地下鉄 霞ヶ関駅1番出口)



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