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2011/06/06

最高裁判決と大阪府条例について(2)

渡部です。

昨日のメールの続きです。「君が代」起立斉唱は当然、何度も反する教員はクビにしても当然、という論理に対する反論です。

まず第一に問題とすべきは、「現在の日本社会では誰が主権者か」という問題です。

「君が代」は明治初期に作られた天皇制を賛美する歌であり、明らかに「天皇主権」の歌です。それは歌詞を見れば一目瞭然です。その歌を「国民主権」の日本社会において人々に強制し、起立し歌わなければ処分するなどということは、たとえ教員に対してであっても、あってはならないことです。

だから、そのことを知っていた当時の政府は繰り返し「強制はしない」と述べ、天皇も「強制は良くない」と述べているのです。また、菅首相も「日の丸・君が代」法制化当時、『天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の立場から明確に反対した方がいい』と述べていたのです。

問題は、「君が代」の果たした歴史的役割ではなく、「君が代」が現在果たしつつある役割なのです。

これに対する裁判所の判決は、昨年11月10日に東京高裁で出されたNさんへの判決だけだと思います。

Nさんは「陳述書」で、「君が代」の違憲性を問いました。

それに対して東京高裁は

①「国旗・国歌法」は旗や歌詞の意味内容について特定されているわけではない」
②「国民に対して・・・法律的尊重義務を課してたり、これに違反したりした場合に不利益を課するなどといったことは一切規定していない」

とし、(ここから先がさらに詭弁になりますが)、

③「国旗及び国歌に関する法律の存在が、直ちに、思想及び良心の自由の侵害、信教の自由の侵害、表現の自由の侵害と結びつくことはない」
④「法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、裁判規範性としての意味を持たないものであるから、同法が憲法に違反するか否かという司法判断にはなじまないものと言わざるを得ない。」

と司法判断を回避しているのです。

しかし、「君が代」の「君」は天皇であると言うことは政府も法律制定時に答えています。にもかかわらず、裁判所は「特定されていない」と誤魔化しているのです。つまり、裁判所は「君が代」の<意味内容>が明らかにされると「まずい!」と考えているのです。

また、実際に「君が代」によって、「尊重義務」や「不利益」が生じているから問題にしているにもかかわらず、「法律の存在が、直ちに・・・自由の侵害と結びつくことはない」などと訳の分らないことを言っています。しかしNさんは、「法律の存在」を問題にしているのではなく、「法律」そのものの違憲性を問題にしているのです。

要するに、「君が代」の意味内容が問題になっては、強制と処分に道理がないことが白日の下に晒されるので、大変困るということです。だから、いろいろな詭弁・強弁を使い、判断を回避しているのです。

それゆえ、最高裁も橋下知事も決して「君が代」を問題にしようとはせず、単なる「国歌」(あるいはシンボル=象徴)としてその本質を覆い隠そうとしているのです。

したがって、「君が代の強制」を問題にするのではなく、「シンボルの強制」を問題にするというのは、問題の本質を見失わせることになります。

問題は「国民主権」の現在の日本社会で「天皇主権」の「君が代」が強制されているということです。これは「強制」より前に「主権」の問題です。

だから、何人かの教員が「強制」されなければよい、何人かの教員の「思想・良心の自由」が守られればよい、という問題ではありません。

ちなみに、現在問題になっている「育鵬社」と「自由社」の教科書では、架空の神武天皇を初代天皇と記述し、明治憲法を賛美し、昭和天皇もコラムで大きく取り上げるという扱いです。「育鵬社」の教科書に至っては、皮肉にも、最高裁長官が皇居で天皇に頭を下げている任命式(!)の写真が掲載されているようです。

本日(6月5日)はここまでとします。明日は、<「学習指導要領」と「慣例上の儀礼的所作」>について、です。



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