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2014/01/30

「日の丸・君が代」第三波最高裁判決(2013/9)と進行する教育介入

N20140102

「日の丸・君が代」第三波最高裁判決(2013/9)と進行する教育介入
~憲法は突破された~

「日の丸・君が代」累積加重処分取消裁判 元原告 近藤順一

はじめに

 9月の最高裁小法廷判決から4カ月ほど経過した。これに対して都教委は、わずかに以下の諸点において見解の一端を示している。

*都教育委員会の比留間英人教育長は「都教委の主張が認められたのは当然のことと考える。今後とも学校における国旗・国歌の指導が適正に行われるように取り組んでいく」とコメントした。(都政新報 2013年9月10日号)

*「平成24年1月24日の教育委員会臨時会に置いて、都教育委員会の考え方をまとめた『入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について』が、委員総意の下、議決されました。平成25年9月6日に出された最高裁判決においても、10・23通達に基づく職務命令が憲法第19条に違反するものではないと、改めて示されています。」(東京都教育委員会「請願について(回答)」平成25年10月10日・平成25年12月20日)

*「同服務事故については、平成25年9月の最高裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が重きに失するとして、その取消しが最終的
に確定したことから、同判決を踏まえて懲戒処分の程度を改めて検討し、戒告処分を行った。」(教育庁「入学式・卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について」平成25年12月17日 )

 ここから言えることは、都側の判断は、第三波判決が憲法判断、裁量権判断において第二波判決(2012/1~2)の枠内との認識であろう。その共通する内容は以下のごとくである。

1、 憲法19条について、職務命令は違反しない。
2、 憲法23・26条の教育の自由について(その余の上告理由)は、上告の理由(民訴法第312条)に当たらないとして却下する。
3、 裁量権逸脱濫用の適用において、2008年までの戒告処分を一律是認し、また特に「規律」「秩序」を乱していない「不起立・不斉唱・不伴奏」による減給・停職の処分は違法として取り消す。
4、 「過去の処分歴等」「不起立前後の態度」が「規律」「秩序」を乱した場合は処分量定との権衡により減給・停職を是認する。

 3・4により、2012/1・16判決では取消された減給・停職は2件、是認されたものは停職1件、2013/9判決では取消30件、是認2件だった。さらに、2013/12・17、減給処分を取消された現職教織員7名に対して再処分(戒告)が行われた。

 本論考では、第三波判決の憲法判断、特に教育の自由についてどこまで踏み込んだのか、それと関係する裁量権判断は何を示しているのか、そして、最高裁判決と行政(地方・国家)の教育介入との関係を検討するものである。

1、 第三波最高裁判決の憲法判断

1,憲法19条(思想及び良心の自由)に対する判断
 この9/5・6・10の判決は5件、第一・二・三小法廷で下された。最高裁は「日の丸・君が代」裁判ではすべて小法廷判決を続けてきた。第一波(2011)は11件・3小法廷、第二波(2012)は3件・第一小法廷、そして第三波(2013)は5件・3小法廷。こうして、大法廷を開かず(回避し)、かつ事実上全体の意思を示したのである。一つの意思の貫徹であった。それは、枠組みとしては19条について判決を下し、23・26条については正面からは判決せずに、全体の判決内容によって実質的に判断を示すものであった。

 一律起立・斉唱・伴奏の「職務命令が憲法19条に違反するものでない」理由として「参照」すべき判決としてピアノ判決(2007/2・27)と第一波判決をあげている。また過去の3つの大法廷判決(謝罪広告事件・猿払事件・旭川学テ事件)の「趣旨に徴して明らかというべきである。」としている。

1 ベースとしてのピアノ最高裁判決 ~内面性と外部性の分離~
 この判決は「日の丸・君が代」の教育内容の意義について最高裁独自には語っていない。わずかに学校教育法・小学校教育の目標「郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと」、小学校学習指導要領・儀式的行事「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機づけとなるような活動を行うこと。」、そして「入学式や卒業式等における国旗及び国歌の取り扱い」を取り上げている。しかし、これらの提示と起立・斉唱・伴奏との関係は述べていない。専ら「斉唱されることが広く行われていた」「ピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるもの」と言うのみである。取って付けたように上告人の「歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできない」としている。そこで内面と外部行為を区別することを説いている。
さらに、「特に、職務上の命令に従」う行為は「特定の思想を有するということを外部に表明する行為と評価する」ことは「一層困難である」等と"命令に従っただけ"という陳腐な思考展開をしている。「日の丸・君が代」自体、あるいはその強制に反対だけれども職務命令に従うだけという「順法行動」を勧めている。これは教職員側から見ると、教育的責任・良心を胡散霧消させ、罪悪を免罪するものであろう。行き着くところ、ハンナ・アーレントがいう“アイヒマンの悪の凡庸さ・陳腐さ”と同質である。
 ところで、この判決には、那須弘平裁判官の補足意見が付いている。最高裁判決の個別意見は3種類ある。
<意見>:法廷意見(全員一致)や多数意見(反対意見がある)の結論には賛成するが理由を異にする。
<補足意見>:法廷意見や多数意見を構成するが、独自の意見を表明する。
<反対意見):多数意見に結論的に反対する。
 那須補足意見は「多数意見にくみするものであるが、その理由とするところについては、以下のとおり若干の補足をする必要があると考える。」として、より赤裸々に判決の意図を示している。いくつか見てみよう。
 「各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは、学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし…」
 「他方で斉唱することに積極的な意義を見いだす人々の立場をも十分に尊重する必要がある。」
「校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも『思想及び良心の自由』との関係で許される。」
 「総合的統一的に整然と実施されなければ、教育効果の面では深刻な弊害が生じることも見やすい理である。」
 (日野「君が代」処分対策委員会/弁護団編集『日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件 全資料』より)
 つまるところ、教職員、児童・生徒を含む全校で一律起立・斉唱・伴奏をすること、規律、秩序を維持することが必要だとしている。それが児童・生徒へのすり込み、同調を醸成していることに無頓着である。

2 ステップアップした第一波最高裁判決(2011/5~7) 
~「儀礼的所作」と「敬意の表明行為」~
 国旗・国歌法はもちろん、教育基本法、学習指導要領、都教委「10・23通達」にも、「日の丸・君が代」をなぜ掲揚し、斉唱するのかという教育的意義を十分には語っていない。「10・23通達」は規律・斉唱・伴奏という教育的方法については明確に述べ、それを如何に貫徹するか、つまりは処分を構えて強制するかを細かく展開する。それではどのように意義付けをしているか。
 国旗・国歌法の成立時の国会論議で、当時の小渕首相は次のように述べた。
 「日本国憲法下においては、国歌君が代の『君』日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国および日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(1999年6月29日の国会答弁)
これが後に政府見解となり、現在まで継承されている。ここでは明確に「君が代」と天皇・日本国家との関係が述べられ、「繁栄と平和」という価値観が表明されている。最近の安倍首相が「積極的平和主義」を語っていることを見ればその意図は明確であろう。
2006教育基本法では<教育の目標>で次のように提示する。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。 」
ここでも「君が代・日の丸」は出てこない。その意味では自民党の憲法改正案(2012・4)が、「天皇元首」「国旗・国歌尊重義務」を明記しているのはストレートである。
 学習指導要領に関してはその「解説」で次のように展開する。
 「国旗および国歌の指導については、社会科において『国旗および国歌の意義ならびにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること』としている。」(2008・7文科省「中学校学習指導要領解説」)
 いわゆる国際儀礼(プロトコール)を示そうとしているかもしれないが、なぜ入学式、卒業式等に持ち込むのかは直接には語らない。

 このような法体系および行政の意図・限界を突破したのが第一波最高裁判決の「慣例上の儀礼的所作」と「敬意の表明の要素を含む行為」判決である。前者で「思想及び良心」を直接侵害しないことを述べ、後者では「間接的制約」を述べる。そして、起立・斉唱・伴奏の必要性、合理性から「職務命令は19条に違反しない」という。ピアノ判決では、「音楽選科の教諭等に通常期待されるもの」であり「間接的制約」ですらないとされたが、第一波判決では、起立・斉唱・伴奏を「社会一般の規範等」として、それを各個人の歴史観・社会観から拒否する者の存在を認めた。教育的良心、教授の自由から拒否することまでには、判決は及んでいない。第一波判決が大法廷ではないが全ての小法廷で下されたことからも、より大局的、普遍的な判決の意味をもった。
 「敬意の表明」は上記の「君が代」政府見解と結合すればその教育的意義は明確である。つまり「国旗・国歌に対する敬意の表明」は、天皇および日本国に対する尊敬・忠誠を表明することに他ならない。これは明らかに行政が教育方法を決定し、学校現場の責任者である校長に命令を出させるのを、最高裁がその意義、教育内容を規定して容認したのである。19条違反ではないことを判じつつ、教育内容への介入をも認めたことになる。教育の自由についても実質的に判断したことを示している。
 政府自身が「これらの政府の見解(『日の丸・君が代』政府解釈)は、政府自身の見解でございまして、国民のお一人お一人が君が代の意味などについてどのようにお受け止めになるかについては、最終的には個々人の内心にかかわる事柄であると考えております。」(野中官房長官 1999年8月6日 特別委員会)と国会答弁していた。「敬意の表明」はひとつの「意味」であり、その強制は「内心」に踏み込み、侵害していることは明らかである。
 なお、判決は「敬意の表明の要素を含む行為」と判じていることから、「敬意の表明」以外にも「敬愛の表明」(千葉最高裁裁判官の補足意見)「尊重の表明」「尊崇の表明」「拝跪の表明」等が想定されている可能性がある。“国旗・国歌尊重義務”はすでに超えられているのかもしれない。早晩、儀式の中で《天皇陛下万歳、日本万歳》が行われても不思議はない。国旗掲揚・国歌斉唱よりも「敬意の表明」としてはわかりやすい。

2、憲法23・26条(教育の自由)に対する判断
 第一波、第二波そして、この第三波最高裁判決でも直接には判断しなかった。ところが、最高裁は「19条に違反しない」「理由」として旭川学テ判決の「趣旨に徴して明らかというべきである。」と判じている。
旭川学テ判決は「憲法と子どもに対する教育機能」の項を起こし憲法13条、23条、26条から説き起こしている。
「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容および方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。・・普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない。」(旭川学テ事件 最高裁昭和51年5月21日大法廷判決)
 「国は、国政の一部として・・必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、・・教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される・・誤った知識や一方的な観念を子どもにいえつけるような内容の教育を施すことを強制するようのことは、憲法二十六条、一三条の規定上からも許されない」(同上)

 つまり、この学テ大法廷判決は「裁判官全員一致の意見」で、国(行政)の教育内容決定権と教師の教授の自由とのバランスをとっているのである。ところが、第三波判決はこの憲法判断よりも、06教育基本法の解釈をもってきている。
2013・9・5判決で確定した筆者(原告)に対する原審判決には旭川学テ判決の次の部分の引用ある。
 「旧教基法10条は、国の教育統制機能を前提としつつ、教育の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立におき、その整備確立のための措置を講ずるに当たっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する『不当な支配』となることのないようにすべき旨の限定をしたところにその意義があるといえる。」(平静24年4月19日 地裁民事第19部判決 古久保裁判長)
 「敬意の表明の行為」が厳しく検討されるべきは、旭川学テ判決が判じた「党派的は政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育の内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」点についてである。最高裁第三波判決は、行政(国・地方行政を問わず)の教育権を優先させ、憲法23・26条を迂回しながら、実質的に学校教育への介入を容認したのである。
 都教委は、10・23通達が「裁判所の判断において・・『不当な支配』には該当しないとされています。」(平成25年10月10日・平成25年12月20日「請願について(回答)」)として、後述するように次々と介入を深化・拡大しているのである。

2、  第三波最高裁判決の裁量権逸脱濫用判断

1、 処分と処分量定

最高裁は、10・23通達、職務命令は「強制」ではないが「敬意の表明」を拒否するものの存在は認めた。
よく取り上げられる国旗・国歌法制定時(1999年)の政府答弁であるが、小渕首相、有馬文相、野中官房長官等は確かに“強制はしない”“これまでと変わるものではない”と述べた。
10年後にもそのことを自認している。
「野中 ・・僕は答弁でも『国旗国歌は強制するものでも何でもない』と言った。だから第一条『国旗は日章旗とする』、第二条『国歌は君が代とする』。それだけですよ。だから強要も何もしないと。それまでは、根拠法がないということで争いが起きてきたわけだからね。
辛 でも国旗国歌法案が通った現在も、教育現場はまだ揉めていますよね。
野中 あれは東京だけだ。学校現場が、教育委員会も含めて、紛争がなくなった。争うにも争うタネがなくなった。」(2009 野中広務 辛淑玉『差別と日本人』)
ところが、同じ国会での政府答弁で文部官僚は次のように述べている。
「政府委員(矢野重徳君) 校長から入学式等において本来行うべき国旗・国歌の指導を命ぜられた教員は、これに従って指導を行う職務上の責務を有しておるわけでございまして、これに従わなかった場合につきましては、地方公務員法に基づきまして懲戒処分を行うことができることとされているところでございます。」(1999年6月29日の国会答弁)
立法(国会)、行政(地方行政)、司法(裁判所)が一体となって形式的には「強制ではない」としながら、都教委は457件にも上る累積加重懲戒処分を発令・執行してきたのである。
 これまでの最高裁判決によって、すべての戒告処分を是認され、減給・停職処分については32件の取消し、3件の是認が確定している。

2、減給・停職処分取消と是認の意味
 2012年の1・16判決は第一小法廷のみの判決であったが、2013・9月の第三波判決は3つの小法廷全てで判決が下された。5件の判決は、全て高裁判決に基づく上告人・被上告人双方の上告受理申立(裁量権問題に対する請求)を不受理としたものである。全体に対しての判断は先述した通りである。ここでは、30件の減給・停職処分取消と、2件の減給・停職処分是認について分析する。
 まず、この処分の取消は裁量権逸脱濫用による処分量定が不当とされ、処分権者である都教委の違法行為とされたものである。確定した原審判決から見てみよう。筆者(控訴人)の高裁判決を検討する。

 「第1審原告の強固な意思に基づく不起立の行動は、指導や職務命令に従わないとの姿勢が顕著であることを表すものであり、悪質度合いが大きいものであるということができる。」(平成25年2月26日 高裁第10民事部判決 園尾裁判長)
 「本件第2処分にかかる非違行為は、本件第1処分後に行われた非違行為であるという以外には、それが第1処分にかかる非違行為の内容を上回る悪質性を有するものと認めることは困難である。」(同上)

 つまり、「悪質性」は、第1,2,3,4不起立において普遍であると判じている。その上で「1回の戒告に続いて直ちに減給以上の懲戒処分を選択する合理的な理由があると認めることはできない。」(同上)として減給1月・減給6月・停職1月を取り消したのである。言うまでもなく、2,3,4回目の「非違行為」「地方公務員法違反」が白紙にされたわけではなく、処分量定が違法とされただけである。
 それ故、都教委は、減給を取り消された現職教職員に対して再処分を強行しているのである。減給がダメなら戒告にするというわけである。この都教委の措置はまったく不当極まりないものであるが、同時に“戒告処分は当不当の問題を論じる余地はあるが妥当とする”最高裁は、それ以上に行政側を追及しないのである。最高裁は思想・良心、あるいは信仰から「儀礼的所作」「敬意の表明」を拒否する教職員(異質・異端な日本人)の存在を認めたが、教育の自由に踏み込まないことの代償として加重処分を取り消したといえよう。トータル32件の処分取消によって、「日の丸・君が代」問題の焦点があたかも裁量権逸脱濫用によって(違憲判決ではなく)被処分者の処分が取り消されるかどうかにあるかのような錯覚に陥ってはならない。最高裁の憲法判断・不当判決を問い続ける所以である。そのことは、減給・停職を是認され続けている問題に如実に表れている。

 1・16判決では「過去の処分歴等」「不起立前後の態度」によっては減給、停職処分を是認することがあるとされた。それは規律・秩序を乱したとか、式の進行を妨害したとかがあげられている。具体的には、校長が独断で掲揚した「日の丸」を引きおろしたこと、校長批判の内容の文書を学級活動で配布したこと、服務事故再発防止研修でゼッケンをつけ進行を妨害したこと等が指摘されている。2013・12現在、裁判進行中の停職事件の裁判では都側はいわゆる「停職出勤」を問題にしている。(東京地裁民事第19部に提出した筆者の「陳述書 原告根津公子の停職6月処分の取消判決をお願いします」を参照)
  それぞれの事案である懲戒処分時の不起立とは直接関係しない出来事を、何度でも処分是認の理由としているのが特徴である。恣意的に取り上げられている内容は、生徒との関係で言えば、積極的な教育実践が標的にされている。強制下の規律・秩序に対する抵抗や児童・生徒との直接的なかかわり・教育実践への歯止めになっている。ここでも教授の自由を実質的に認めない、旭川学テ判決からの後退が見られる。
さらに、懲戒処分、分限処分も上限があるわけではないことを示している。都教委の公式文書では2008・7「分限事由に該当する可能性がある教職員に関する対応指針」がある。「分限処分の種類」として降任、免職、休職があげられ、「該当する可能性がある」例として、「研修を受講しない」「研修の効果が上がらない」「職務命令に違反する」「再び非違行為を行い」等が示されている。加重懲戒処分が不可とされれば、次に来るのは分限処分である。きわめて危険な段階にさしかかっていると言えよう。

3、 最高裁判決と学校現場
 10・23通達・職務命令は「強制」ではない、「憲法に違反しない」との判決は学校現場へ深刻な影響を与えている。
1、再処分
 懲戒処分は不当ではなく処分量定が違法とされたとの認識の下に、9月に最高裁判決で減給処分が取り消された現職の教職員に対して都教委は、再処分を強行した。(2013・12/17)先述したように最高裁判所の判決が処分自体を否定したわけではないとする行政は、抑圧の手を緩めない。
 2、教科書採択及び内容への介入から「教科書改革実行プラン」へ
最高裁判決と教科書採択への介入の関係は直接的である。そして、政府は教科書検定自体の改変に乗り出した。

 実教出版『高校日本史A/B』:「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府はこの法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」

 都教委「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日):「入学式、卒業式等においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導することが、学習指導要領に示されており、このことを適正に実施することは、児童・生徒の模範となるべき教員の責務である。また、国歌斉唱時の規律斉唱等を教員に求めた校長の職務命令が合憲であることは、平成24年1月16日の最高裁判決でも改めて認められたところである。」

 ここにはいくつかの問題が内包されている。先述した「国旗・国歌法」成立時の国会審議での閣僚と官僚の答弁、学習指導要領の解釈・効力、内心の自由と教員の責務などである。都教委が依拠するのは最高裁判決であり、そして起立・斉唱命令は「強制ではない」と強弁する。文部官僚も国会で“職務命令に従わなかったら地公法に基づき懲戒処分できる”と言っているではないか、という。一教科書の一注意書きだろうと、なりふり構わず猛然と反撃した。「都立高等学校において使用することは適切ではないと考える。都教育委員会は、この見解を都立高等学校等に十分周知していく。」(平成25年6月27日 都教委「見解」)と断固たる措置をとった。その結果この教科書の採択はゼロとなり、他府県にも波及した。
 最高裁判決が、起立・斉唱・伴奏を命じた職務命令は19条(思想及び良心の自由)違反ではないと判じたばかりか、「敬意の表明の要素を含む行為」という教育内容を行政が決定し学校教育に押し付けても不当な支配ではないとしたところから、教育介入は堰を切られたのである。
国のレベルでは「教科書改革実行プラン」において「政府の統一的な見解や確定した判例がある場合の対応に関する条項を新設」した検定基準を作ろうとしている。ここでもはっきりと「判例」を意識している。つまり、「強制の動きがある」とは全く逆の「職務命令は合憲である。不起立は悪質である。」と記述された教科書が児童・生徒の手に渡されるかもしれない。

おわりに

 9/5の最高裁判決後、周りの支援してくれた方々から好意をもって「これからどうするの。」という類の言葉をきいた。敗北した身にはちょっと堪えたが、
次々と出されてくる教育介入・統制の情況を見るにつけ、この敗北の影響を思い知らされた。形式的にしろ、最高裁・不当判決の内容が“国家の意思”として通用している。 
 12月6日、私も国会前にいた。70%の世論に反して目の前で秘密保護法が成立する中、シュプレヒコールをあげながら寒さにふるえていた。ある評論家は反原発の行動を“夢みる乙女のシュプレヒコール”と揶揄した。それは知ってはいたがそれでも足が向いた。国会前の行動は、シングルイシュー・個人参加を基本としている。それは広範な人々の瞬発力という強みではあるが、同時に多様性・共同性の面で弱点をもつ。運動はその展開の中で質的に高まるべきもの。「日の丸・君が代」問題では、組合員の不起立行動に対して労働組合の側が距離をとろうとしてきた。運動と既成の組織との間に深刻な亀裂が続いてきた。
一方、権力側は、軍事体制強化と教育統制の強化を両輪として突き進んでいる。その両輪を繋ぐシャフトは、愛国心であり、公益および公の秩序である。年末には、安倍首相の靖国参拝が強行された。この参拝は、神社側の例大祭や8・15ではなく、自らの政権樹立1周年に、防衛大綱・国家安全保障戦略等の軍事体制(アベタリズム)を確立強化した後で決行された。より挑戦的である。それでも排外的ナショナリズムが国民の基本意識を捉えている限り権力は安泰である。
自分の裁判は終わったが、課題としてきた日中友好と教育の自由はますます危機的な情況となっている。新たな取り組みを進めなければならない。

2014/1/2

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